ちょっとややこしい話だが、園館を造る場合、「展示」と「演示」を混同すると、主張の曖昧な施設になってしまう。また、園館の限界やその置かれた社会的位置や機能についての「誤解」があると、独りよがりの施設ができる。
私自身は、園館内部の人間ではない。また、利用者という立場とは別のレベルで、園館に関わり始めてまだたかだか22年にしかならない。1989年、東京動物園協会から「動物園ゼミナールでペンギンに関する連続講演を企画して欲しい」と依頼されたのが、そういう微妙な立場の始まりだ。それが、今日の「ペンギン会議」設立のきっかけになった。
しかも、私はペンギンから全く離れて園館との関わりをもったことは一度もない。一園館ファンであるという自覚は明確にあるが、今の私にとって、園館はペンギンとの関わりなしには考えにくい存在だ。
現在進行形のものも含めると、これまで携わってきたペンギン施設の新設やリニューアル事業は12例になった。中には「長崎ペンギン水族館」のように、丸ごと1つの水族館の基本構想から設計全般そして教育・普及コンテンツまで手がけた例もある。
しかし、それらの経験から言えることは、園館というのは全てが完全なオーダーメイドで、1つとして同じものはない、ということ。たとえ同じ出資母体、経営母体を持とうと、立地や建設時期が異なれば、一卵性双生児のような施設には決してならない、ということ。
また、たとえ同じ生き物を展示・飼育していても、施設が異なれば各々の特徴は大きく異なる。逆に言えば、「これがこの生き物の究極の展示・飼育施設だ!」等というものは存在しない。
考えてみれば、それは当たり前のこと。もともと、園館というのは、その生き物の本来の生息地や生息環境から切り離して、人工的な環境の中で野生動物を飼育する施設だ。どんなに頑張っても「野生の環境を完全に再現すること」は不可能だ。「できる!」と断言する人がいるとすれば、きっとどこかに傲りや誤解がある。
なにが言いたいのか?
園館をつくる時には「演出」が欠かせない、ということ。冒頭に述べた「展示」と「演示」の違いである。「展示」は、つまるところ「あるモノをそこに置く」ということ。だから「ペンギン展示施設」とは「ペンギンを置いてある施設」ということだ。それだけではあまり意味をなさない。
では「ペンギンを置く場所=展示施設」をどのようにつくるのか?その基本的考え方や方法・技術が「演示」である。現在は、内外の演示手法が実に多様化した時代だ。ペンギンだけをとってみても、本当にいろいろなパターンがあって、百花繚乱の感がある。動物園、水族館、鳥類園、果ては博物館に至るまで、ペンギン展示施設を持つようになった。
さらに、園館が果たす社会的役割についての認識も、より明確かつ多様化してきている。園館を批判するにしても、もはや「見世物小屋」という紋切り型の批判は時代錯誤だ。それは、20年前くらいまでは通じたが、今そのセリフを使って園館を非難すれば、「浦島太郎」的扱いを受けるに違いない。
つまり、別の言い方をすれば、社会的批判にさらされてきた園館は、この20年ほどの間に理論武装を進め、組織や施設の質的転換に努めてきた。それは決して容易い途ではなかった。いくつもの園館が消え去り、人事や管理のシステム転換によって、多くのスタッフが苦渋の選択を迫られた。
だから、演示思想や手法についても、様々なアイデアが併存し、切磋琢磨している。悪く言えばかなり「高度かつ巧妙なパクリ」が横行しているとも言えるが、好意的に考えれば、この競争によって演示のイノベーションが促進されている、とも言える。
さて、やっとロンドン動物園のペンギンビーチにたどり着いた。そもそも「ペンギンビーチ」という展示施設の名称を最初に用いたのは、長崎ペンギン水族館だ。それは、本当にビーチだからだ。確かに人工海浜ではあるが、歴とした橘湾の一角を占める天然海水の砂浜だ。その証拠に潮位の変化がある。そこで温帯ペンギンを泳がせる演示は、私の夢の1つだった。
実は、長崎のペンギンビーチ誕生には、産みの苦しみがあった。新しい展示施設を増設するにあたって、「南極ペンギン」を飼うという選択肢もあったからだ。しかし、予算上のハードルもあり、最終的にはペンギンビーチ実現が決断されたのだ。
ロンドン動物園の場合、ペンギンビーチという演示方針が、どういうプロセスで決意されたのかは、まだわからない。おそらくは、飼育するペンギンの大多数がフンボルトとケープだという事情が勘案されたからだろう。しかし、きっとそれだけではないはず。
すでにご紹介した「解説活動」の内容からも、演示方針の基本は明らかだろう。つまり、ペンギンビーチの「狙い」は、野生のペンギンたちが置かれた現状を、より正確かつ印象的に来園者に伝えることにある。だとすれば、ビーチで飼育・展示される種類がフンボルト、ケープ、マカロニ、イワトビという「非南極種」であっても、そこに「南極基地」があり「防寒服を着ている研究者の写真」があったりしても、大きな問題はない。ビーチの設置者は、そう考えているに違いない。
批判しようと思えば、例えば「イマージョン的立場」から、「あの南極基地の小屋はビーチに矛盾する」と断言することは容易い。しかし、光景=見た目だけの完璧さを求めることが、果たして究極の演示手法か?といえば、そうではないだろう。
園館の存在意義の1つは、利用者の目を楽しませるだけでなく、野生動物の姿や現状を、正しくしかも解りやすく伝えることにもあるはず。だとすれば、ペンギンビーチに建つ「南極基地」は、かえって良い意味での視覚的導入装置だといえるだろう。その姿勢は、基地の内部演示にも現れている。やるとなったら、中途半端ではなく、徹底して楽しめかつ学習活動に利用しやすい道具を整える。そういう思いきりのよい演示姿勢は、欧米の園館に共通していると思う。見習うべき姿勢ではないだろうか?
次回は、その続き、この「南極基地」前で行われる「ゲーム」と、施設管理に関するお話をしたい。