園館には「遊び」が必要だと思う。ここでいう「遊び」とは、遊戯施設や「ショー」のことではない。また、記念撮影のためのサービスやポイント(顔だしボード等)を設けることでもない。もちろん、「芝生広場」等の空間をタップリとることでもない。
要は、園館を文化施設だと感じられる、気の利いた演出が欲しいな、と思うのだ。
欧米の園館を巡っていて、いつもホッとするのは、あちこちにさりげなく「芸術性を感じられるしかけ」が施されていること。例えば、彫刻作品、オブジェ、銅像、絵画、そして野外音楽堂等の演奏施設。たしかに、私たちは、園館に「生き物」を見に行く。では、それだけで満ち足りた気持ちになれるか?というと、どうだろうか?
かつて、園館が単なる「見世物小屋」だった時代がある。そして、非常に残念だが、現在でもその残像が消えていない施設も、数少ないが依然として存在する。では、どこが「見世物小屋」という雰囲気を醸し出しているのか?
それは、動物が陳列されていて、いかにも見やすいか否か?という点にある。お客は「動物を見に来た」のだから、動物は見やすく展示されていなければならない。いつでも、誰でもが、同じように、確実に動物を見られなければならない。別の言い方をすれば、その動物の個性的生態やその動物の健康状態など、お構い無しなのだ。
お客にとっては、「入場料に見合う見世物」が大事なのであるから、「オオイタチ」が「大板血」であろうと、そこに何かがあれば、木戸銭に見合うサービスは提供した、ということになる。昔、温泉場によくあった「秘宝館」や「万宝館」は、まさにそれだった。生き物が、怪しげなミイラや標本や骨や皮や、徳利を提げたタヌキ等と一緒に、薄暗い小屋の中に雑然と並べられ、亀の池には必ず小銭が沈んでいた。
人の脂で汚れた暖簾を潜って出ると、次の小屋には射的や金魚すくいやパチンコ台が並んでいた。貧乏時代のアミューズメントの定番だ。しかし、それがナゼか楽しかったし、なんの疑問も持たなかった。高度経済成長は、動物園に近代的遊園地を併設し、薄汚れた小屋に代わってコンクリート製のオシャレな水族館を全国各地にちりばめた。
でも、確かに見てくれは豪華になったが、そこには「見世物小屋のシッポ」が見え隠れしていた。「大板血」が姿を消し、亀のプールに小銭が投げ込まれることはなくなった。しかし、「動物を見せていればそれでよい」という雰囲気はなかなか消えてくれない。
ペンギンで言えば、「白いコンクリート氷山にフンボルトペンギンが群れている」光景は、ほぼなくなった。しかし、以前にくらべて、よりペンギンのことがわかりやすくなったか?といえば、ちょっとあやしい…。
大事なのは、「ペンギンプールそのもの」だけではない、ということ。現在、園館に通うわれわれは、「見世物小屋」に通った同じお客ではない。「見世物小屋時代」は、半世紀以上過去の出来事になりつつある。現在のお客は、「生き物がいる」だけでは、おそらく満足や充足感は得られまい。「動く生き物」ならば、テレビやビデオ、映画の世界にも溢れているのだ。いや、ひょっとすると、映像世界の生き物の方がわかりやすかったりする。
「生きた本物が見られます!」だけでは、現在、そして未来の園館としては、機能不足なのだ。「どう見られるか?」、「付加的情報や体験ができるのか?」、「支払った入場料はどう活かされるのか?」という点が重要なポイントだ。そして、さらに…。
メインのステーキだけでなく、付け合わせの野菜やデザートが如何に充実しているか?動物からふと目をそらした時に、そこに購買意欲を刺激するオシャレな売店があったり、ペンギンプールを眺めながら美味しいコーヒーが飲めるテラスつきのカフェがあったり、楽しげな彫刻が配置されていたりすれば、どうだろうか?
以前ご紹介した「ホルスタインペンギン」は確かに異様だ。しかし、「???」という反応を示すか否かだけでなく、ホルスタインの中に、いくつペンギンらしさを発見できるか?そういう意味で、これは「解説教材」としての機能も担っているのだ。しっかりした観察眼を磨く場は、なにも真面目な観察会だけの専売ではない。スコッツのユーモアに触れながら、じっとホルスタインの体に注目するのも、また一興というものだ。
次回は「解説標示」について観ていきましょう。