短歌とペンギンと「脱出願望」と…

2011 年 11 月 4 日 金曜日

10月31日の『朝日歌壇』(朝日新聞)に、苫小牧市の方のこんな作品がありました。

「繰り返す地震にこころが萎えてきてふと口ずさむペンギンの歌」

10月31日の『朝日歌壇』(朝日新聞)に、苫小牧市の方のこんな作品 10月31日の『朝日歌壇』(朝日新聞)に、苫小牧市の方のこんな作品

歌人=高野公彦氏の「評」に、「第二首は塚本邦雄作『日本脱出したし皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも』を踏まえ、脱出願望をうたう。」とありました。

短歌が好きで、新聞ウォッチャーの妻が気づいて、教えてくれました。

いろいろ考えさせられる作品です。心にひっかかってなかなか離れません。

確認したわけではありませんが、たしか塚本邦雄の歌は「動物か動物園をテーマとする一連の作品」の中にあったのではないか?と思う。かなり古かった、とも思います。ひょっとすると上野動物園のエンペラーにまつわる数々の物語に関係あったかもしれません。

脱出願望というのは、いつの時代にもどんな状況下にもあるでしょう。

束縛からの脱出、痛みからの脱出、日常からの脱出、マンネリからの脱出、青春の情熱が促す脱出、不幸からの脱出、精神的重圧からの脱出、欠乏からの脱出、孤独を好むがゆえの脱出…。

塚本邦雄の作品には、そういった複数の錯綜した「脱出願望」が詠みこまれて、私は嫌いではありません。基本的には、ペンギンと飼育係りと、詠み手の三者三様の「脱出願望」があり、鑑賞する人間の願望がそのどれに共鳴し刺激されるのか?そういった、読み手の選択や価値観の自由を許している「おおらかさ」が感じられるから、でしょうか。

それから…、「脱出」と「逃避」あるいは「逃亡」、「脱出」と「回避」あるいは「忌避」との違いについても、最近は敏感になっている自分を感じます。

東日本に住む、私の友人や教え子の動向に、「ああそうなのか…」と深く考えることがあるからです。自分の中で結論が出ていることではありません。また、「正邪・善悪」、「正義・不正義」の問題でもありません。しかし、あの3月11日以来、どうしても気になってしまう「心の瘡蓋(かさぶた)」のようなひっかかりなのです。

世の中は、こぞって「東日本とりわけ東北の被災地」におもいを馳せています。しかし、その一方で、被災地救済・復旧・復興は遅々として進まず、依然として放射能汚染の醜い染みは、東日本を汚したままです。この「染み」は、目になかなか見えないばかりか、残念なことに一部の人々の心をも、醜悪な色に染めてしまいました。

阪神淡路大震災も、悲惨で悲劇的な災害でした。繰り返しますが、私の親戚も被災しましたし、祖母がこの間に亡くなりました。その時の、喪失感、寂寥感は、いまだに私のトラウマとなり、心の奥底を腐食し続けています。

しかし、今回の東日本の災害は、かなり異質なものです。物理的・物質的衝撃や喪失感もさることながら、それ以上に「人の心のありよう」や「実際の言動」に改めて傷つき、心の流血が未だにとまらない。そんな感じです。

冒頭の歌の「こころが萎えてきて」という一節が、流血のとまらない私の心に、また小さな傷をつけたような気がするのです。「こころが折れる」ではなく「萎える」という詠み手の言葉の選び方が、いっそう切実さを伝えているように思われてなりません。

これは私だけの感慨かもしれません。しかし、東日本に住む人間にとって、時々人間のはかない抵抗をせせら笑うかのように反復される地震は、たしかに心を「萎えさせる」に足る、「巧妙な心理戦」だと思います。また、連日報道される「放射線量」報道は、アナウンサーの表情が穏やかなだけに、私にとっては「安心感」よりは「非現実感」を感じさせる一種の「儀式」です。

3月11日の直後、このブログに記した通り、この闘いは長期戦に入っています。しかも、この闘いには、華々しく晴れがましい「完全な勝利」はありません。「持久戦」と言えば簡単ですが、別に「倒すべき相手」が眼前に立ちはだかっているわけではなく、常に「見えざる敵」、専門の科学者集団ですら見解の一致をみない「未知の恐怖や危機」を相手に暗闇の中で接近戦を演じなければならないのです。

さらに、農家や漁村、激しい被害をうけた地域の被災者の方々は、日々の暮らしやすぐにも訪れる「寒さと雪」との闘いを強いられるのです。

そこに追い討ちをかける「心の荒廃」。いわゆる「風評被害」は、もはやそんな表現では生ぬるい!!明らかな「社会的差別意識」、あらたな「地域蔑視」だと思うようになりました。震災直後は、「パニックにならない日本人」がもてはやされたようです。しかし、今ではどうでしょう?たしかに商店を略奪したり見境なく放火したりといった暴動はありません。でも、冷たい拒否の姿勢、なんら科学的・客観的根拠のない、刹那的・感情的「差別の壁」が、日本を東西に、東日本を関東と東北とに分断しているのではないでしょうか?

地域は、「差別の壁」で隔離されるのではなく、「個性と共存の窓」によって結ばれなくてはなりません。今ほど、そういう努力や心のあり方や、実際の行動が切実に求められている時はありません。

…さて、「脱出願望」ですが…。

実は、私の教え子の中には、海外への移住を真剣に計画している者が複数います。彼らは、真剣に悩み相談した末に、そういう結論に達したようです。もちろん、今回の震災と原発事故だけが動因ではありません。前々から、「エコツアー」を実践したいと夢見ていたことも事実です。しかし、日本での「不安」が、彼らの背中を押しているのも否めません。

一方、国内でも、「西に行きたい」という声を聞きます。「こころが萎える」のかもしれません。まあ、全く逆に、「やっと東京に帰れた!」と喜ぶ者もいるんですが…。

さて、結論が出ているわけでも、結論を出したいわけでもありません。事態は毎日進行中です。しかし、なかなか好転の兆しは見えません。

ただ、「脱出願望」が、「逃避願望」のすり替えにならないよう。昔と同じように「挑戦としての脱出願望」であり続けてほしいな…、とは思います。

ペンギン短歌が、こんなに心にしみた、痛みをともなって響いたのは初めてでした。

コメント / トラックバック 2 件

  1. こばやしゆたか より:

    「日本脱出〜」は終戦直後の歌のはずと思って調べたら、1958年の第三歌集『日本人靈歌』の巻頭歌だそうです。
    直後というにはちょっと間がありました(作った年はわかりませんが)。

    この題名の歌集でこの時期ともなれば、この皇帝ペンギンは暗喩なんでしょうが、ペンギンな人としてはそのままペンギンだと思っておきたいところです。

  2. 上田一生 より:

    >こばやしゆたか 様
    いつも貴重なコメントをいただき、ありがとうございますm(__)m!!

    実は、私も忙しさに縛られていて、なかなか塚本邦雄の作品とその背景について確認できないでいます(~_~;)
    まあ、いろいろな解釈があると思いますが、1954(昭和29)年4月に上野動物園にやってきたエンペラーペンギン、エドワードとメリーは、当時日本では全国規模で大変な話題になりました。
    特に、上野動物園スタッフ(古賀忠道園長時代)の必死の努力によって、世界で初めてエンペラーペンギンの周年飼育に成功したという出来事は、世界的にも高く評価されたのです。
    それ以降、上野動物園はペンギン飼育に力を入れ、ペンギンと言えば上野動物園という連想が当時の常識になっていました。

    また、南極観測が話題をよび、ペンギンは「明るい未来を志向する戦後日本人」にとって、南極の国際的科学調査という華々しい舞台に不可欠のポジティブキャラクターになっていたのです。
    そういう時代の空気は、1954年生まれの私の子供時代にも、まだ多少残っていたことが記憶の片隅に引っ掛かっています(^○^)!!

    少し時間ができたら、この歌の背景について、確認してみたいと考えております(^○^)!!

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