この夏も、様々なアニメーション映画が公開されています。私自身も、このブログでは『マダガスカル3』をご紹介して参りました。それはもちろん、これまでの経緯や、「ペンギンズ」の存在があるから…です。
一方、個人的には『グスコーブドリの伝記』という作品にも大変興味があり、先日、鑑賞して参りました。ますむらひろしさんの猫のキャラクターは、もともとは妻が気に入り、私が影響されて、これまでかなりたくさん単行本を購入してきました。中には、ペンギンをメインとするような作品もあるのですが、今回はペンギンではなく、あくまでも宮沢賢治原作の作品について、見ていきたいと思います。
劇場版アニメーション映画ということでは、『銀河鉄道の夜』が印象的でした。もちろん、今回の『グスコーブドリの伝記』にも、その映像美は引き継がれています。
しかし…、この時期に『グスコーブドリの伝記』が制作されたということに、私は深く思うところがあるのです。
最近30年間ほどの日本のアニメーション映画作品の躍進ぶりには、目をみはるものがあります。『鉄人28号』、『鉄腕アトム』世代の私としては、全く隔世の感があります。しかし、各々の作品には、原作者や制作者の思いや価値観が色濃く反映されています。いわゆる「ロボット戦闘もの」以外では、地球環境や生きものと人間との関係について、様々な考え方が表現されてきました。
こういった価値観の表現は、すでに手塚治虫時代からありましたし、「科学と人間」、「科学と環境」という問題設定は、広く言えば人類が抱える「近代の根本的テーマ」ですから、産業革命以来の基本的テーマということも可能でしょう。
しかし、私は、この傾向を、そういった「後知恵」的な解釈で簡単に片付けてはならないと考えております。
現在の我々は、『沈黙の春』や『複合汚染』や『日本沈没』という作品を知っています。核兵器や生物・化学兵器がもたらす惨禍を知っています。地球を文字通り「1つの共同体」として考える「地球温暖化」も知っています。そして…、去年は、地球がもつはかりしれない巨大なエネルギーが発揮する破壊力と、人間の科学的知識や技術の脆弱さ未熟さを痛いほどおもいしらされたのです。
このブログでも、これまで何回も形を変えて記してきましたが、人間はいまだに「ゼロから生命をつくる」ことはできません。また、「無尽蔵の永久エネルギーをつくる」こともできません。したがって、自らの命を支える糧として基本的手段として、必ずほかの生命と太陽エネルギーを含む地球環境に依存していかざるを得ないのです。
この冷徹な現実、事実を忘れ、あるいは無視して、あたかも「人間はすべてを支配しコントロールしている、あるいはそうできる」と思い込むことほど危険なことはありません。
言い方を変えれば、現代の人間が「過去の誰よりも一番賢い」と思い込むことは、それ自体、大変危険な落とし穴だということです。私はこの考え方を、「歴史学の勉強」を通じて学びました。つまり、「歴史を記す人間は、自分が生きている時代や環境を最善・最高のものとして過去を断罪してはならない」ということです。
それは、私たちの祖先の苦しみや喜びを親身に理解することにつながり、ひいては、現在、私たちが直面し味わっている問題や苦しみにどのように立ち向かい、克服していけばよいか、謙虚に過去に耳を傾けることになるからです。誤解していただきたくないのは、私は決して「歴史は繰り返す」というようないいふるされた歴史感を主張しているのではありません。「歴史は一回限りの(不可逆的な)現象を、謙虚かつ科学的に記録する作業」です。1人の人間が復活し全く同じ人生を歩むことがないように、歴史も繰り返すことはありません。
だから、現在、私たちがおかれている現状や直面している課題を即座に解決してくれる魔法のような特効薬を歴史に求めることは、もちろん不可能です。とはいえ、現代の問題や課題が私たちだけに特有の、言い換えれば過去最大の危機であり、歴史になんのヒントも見出だせないか?…というと、そんなことはない!!…と考えています。
さて…、以上の長い長い前置きをご理解いただいた上で、冒頭の『グスコーブドリの伝記』について考えてみたいのです。この作品(原作)を宮沢賢治が発表したのは昭和7(1932)年、今から80年前のことです。80年前です!!まだ、『沈黙の春』は存在しません。『複合汚染』も『日本沈没』も地球温暖化も、人々の注目はおろか、そういう言葉や概念さえほとんどなかった時代です。
宮沢賢治が稗貫農学校(後の花巻農学校)教諭になったのは、その11年前=大正10年のことです。賢治は、代数・化学・英語・農業・土壌などの授業を担当したといいます。ちなみに…この年、私が大好きな童話『雪渡り』を発表。これで賢治は原稿料として5円を得たそうです。しかし、それが賢治が生前に得た唯一の原稿料だったという事実が、当時の賢治の境遇や創作活動の背景を雄弁に物語っていると思います。
農学校で教師として生徒に接しながら、賢治はどのような世相を目にし、どのような事件に巻き込まれていったのか?大正11年には盛岡に毒蛾が大発生。妹のトシを失います。何回も、天候不順による不作を体験し、農家や農業の直面する厳しい現実を、つぶさに身近に体験します。
大正15・昭和元年には花巻農学校を依願退職しますが、昭和6年に東北砕石工場技師となってからも、折からの大不況と打ち続く東北地方の冷害や豪雨による被害対策のため、病をおして東奔西走の毎日を送ったのです。
ところで…、今回、映像でご紹介した『グスコーブドリの伝記』(ますむらひろし著、宮沢賢治原作、朝日ソノラマ発行、昭和58年9月30日)は、3巻シリーズの1冊です。「宮沢賢治没後50年記念出版」ですから、この本ですら、すでに今から29年前のものです。その当時、もちろん私はすでにペンギンにはまりこんで10数年経っていました。しかし、まだまだ世間にはバブルの余韻が残っていて、環境問題や野生動物の保全等といったことは、当時の日本人の標準的価値観からすれば「道楽の一種」であり、ほとんど眼中にないのが当たり前でした。
だから、大好きなますむらひろしさんが描いたやはり大好きな宮沢賢治の作品が、私にとっては、とびきり輝いて見えたものです。「それみろ!!」と叫びたい気分でもありました。ここに、すでに同じような苦しみを体験した先人の叫びがある。それに共感した漫画家の作品がある。そう思うと、自分が取り組んでいる生きもの=ペンギンの研究と保全に沈黙のエールを送られているような気がしたのです。
さて…、グスコーブドリのお話です。ここでお話の結末を語ることはやめにします。アニメーション映画『グスコーブドリの伝記』のネタばらしになってしまう…からだけではなく、私としては、ぜひ皆さんに原作を読んでいただき、自分の感覚で考えていただきたいからです。
そして、グスコーブドリが最後に下した決断と行動については、それが何を意味するのか、賢治がそこにどのようなメッセージを込めたのか…、皆様のご感想をうかがいたいところです。話がいきなり最近の例になりますが、そこにはおそらく「絆」という言葉は似つかわしくない。私はそう考えています。
映像でご紹介した『グスコーブドリの伝記』(ますむらひろし版)の冒頭に、詩人である天沼退二郎さんの言葉があり、私は、今回改めてこれを読み返して「ああ!そうだったのか!!」と、眼が醒めた思いをしています。以下に引用致します。
「『グスコーブドリの伝記』の母胎となった賢治の最初期童話の一つ『ペン・ネンネンネンネン・ネネムの伝記』では、農民への献身や農業生産のための科学的研究・実践というテーマはまだ見られなかった。やはり飢饉で孤児となったネネムは出世して世界裁判長となり、慢心して罪を犯すのである。この超現実的習作から後年の『グスコーブドリの伝記』が生まれるまでには、農学校教師・農芸化学者としての実践、それを通じてよみがえった幼少年時の見聞や昔から飢饉に苦しんだ東北の風土と歴史、そして、詩や童話の創作によってつちかわれた人間や社会に対する洞察と諦念などが、さまざまに作用している。」
人間はみな、生物学的・病理学的な要素は別として、先祖の知識や経験を全て受け継いで生まれてくるのではありません。むしろ、全く新しい存在として「白紙の状態」で生まれてきます。しかし、生まれ落ちた瞬間から、周囲の様々な環境に激しく翻弄され影響されつつ成長するものです。さらに、残念なことに、あるいはこれがいわば人生の醍醐味の1つなんでしょうが、人間が「環境や自らの経験から学びとり自分の力として利用できる知識や経験や技術や価値観」は、そう簡単に完成し役立つものではないのです。時には目覚ましい早さで修得することもあるかもしれません。しかし、だいたいは苦い失敗や痛みをともない、内心傷つきながら学んでいくのが普通でしょう。
今、日本や世界の現実は激しく揺れています。華やかな文明の光の中に、醜く不可思議な汚点や気が重い課題が山積していることが、いよいよ明白になってきました。この点だけをとってみれば、現在も賢治の時代も変化はないように思います。現に、賢治は『グスコーブドリの伝記』の中に「火山学や地震学、気象学や農学」に関する鋭い現代的視点を具体化して見せた、という点で、時代にはるかに先駆けた観察眼を持っていたと言えるでしょう。
しかし、私たちには、しつこいようですが、『沈黙の春』があり『複合汚染』があり『日本沈没』があり地球温暖化に関する知識があり、…そして『3.11』があります。日本人の価値観は、今、振り子のように激しく大きく揺れています。しかし、その戸惑いや憂いや悲しみや不信感や不安の中からどのように光明や解決への糸口を見いだすかについては、もっと理性的で賢明であるべきです。
今から80年ほど前、『グスコーブドリの伝記』を通じて賢治が訴えたかったことは何なのか?この夏、あの大震災から18ヵ月目を間もなく迎えるこの季節に、改めて冷静に考えてみたいと思います。